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朱蒙が建国したとされる卒本の地は、現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県(吉林省との省境近くの鴨緑江の少し北)であり、都城の卒本城は五女山山城に比定される。しかし、建国後まもなく西暦3年には、第2代の瑠璃明王が鴨緑江岸の丸都城(尉那巌城)へ遷都した、と伝えられる。高句麗の本拠地が実質的に丸都城へ移った時期は、2世紀末から3世紀初めにかけてだと見られている。 丸都城時期 丸都城は吉林省集安市(かつての玄菟郡配下の高句麗県)の山城である。その後、山を下りて平地の国内城に王宮を構えたが、山城の丸都城と平城の国内城とは一体のものであり、こうした山城と平城(居城)との組み合わせは、朝鮮半島における城のあり方として普遍的なものとなっていった。国内城については最近の考古学的研究により、3世紀初めの築造と見られている。高句麗は次第に四方に勢力を延ばし、とくに遼東方面への進出に積極的であり、玄菟郡をさらに西に追いやった。後漢の統制力が黄巾の乱により弛緩すると、遼東には公孫氏が自立するようになり、高句麗と対立した。197年に第9代の故国川王が死んだ後、王位継承をめぐって発岐と延優(後の10代山上王)との間に争いが起こり、卒本に拠った発岐は公孫度を頼って延優と対立したが、丸都城に拠った延優が王となって発岐の勢力を併呑した。 公孫氏が魏の司馬懿に滅ぼされた後は、魏と国境を接して対立するようになり、魏の将軍?丘倹により246年に首都を陥落させられた。東川王は東に逃れ、魏軍が引き上げた後に首都を再興した。このときに築城された都を平壌城というが、丸都城の別名または集安市付近の域名と考えられており、後の平壌城とは別のものである[1]。 その後も遼東半島への進出を目指し、西晋の八王の乱・五胡の進入などの混乱に乗じて312年に楽浪郡を滅ぼし、更にこの地にいた漢人を登用する事で文化的、制度的な発展も遂げた。しかし、遼西に前燕を建国した鮮卑慕容部の資産運用 に首都を落され、臣従せざるを得なくなった。355年には初めて前燕から〈征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王〉に冊封され、中国の国家が朝鮮諸王を冊封する態勢の嚆矢となった。前燕が前秦に滅ぼされると引き続いて前秦に臣従し、372年には僧侶・仏典・仏像などを伝えられた。この間、371年には百済の攻撃に王が戦死するなど危機に直面する。 391年に即位した19代広開土王は後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都漢城(現ソウル特別市)のすぐ傍まで迫り、百済王に臣従を誓わせた。その後、百済が倭と結んで新羅を攻めたので援軍を送り、倭を追い返して新羅を朝貢国にした。5世紀、長寿王の時代には朝鮮半島の大部分から遼河以東まで勢力圏を拡大し、当初高句麗系の高雲を天王としていた北燕と親善関係を結ぶことにより遼西地方にも進出を果たした。この外国為替証拠金取引 には領域を南方にも拡げ、平壌城に遷都した。 平壌城時期 遷都直後は大城山城を拠点とし、しばらくしてから平壌城を居城とした。長寿王は西へ進出して遼河以東を完全に防犯カメラ 下として手に入れた。更に475年には百済の首都を陥落させて百済王を殺害し、百済は南に遷都した。この時期には遼東半島、朝鮮半島の半ば、満州と、最大領土を支配するに至り、高句麗の最盛期とされる。 しかし5世紀末になると盟下にいた新羅勢力が強くなり、百済と新羅の連合勢力により領土を大幅に削られる。危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、中国には南北朝の両方に朝貢を行って友好を保ち、新羅との対立を深めていく。この頃のセミナー が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制のために南朝や遊牧民族・突厥などとも手を結ぶ戦略を採っていた。 中国で北朝系の隋が陳を滅ぼして全土を平定すると、高句麗は隋に対抗するために突厥と結んだ。そのために隋からの4次にわたる遠征を受けるが、全て撃退し、却って隋の滅亡の原因を作った(このときの英雄が乙支文徳である)。 隋が倒れて唐が興ると、今度は唐から遠征を受けることとなった。これに備えて淵蓋蘇文はクーデターを起こして宝蔵王を擁立し、軍国主義的政権によって唐の侵略に対抗した。唐の太宗による2回の遠征、さらに高宗期の3回の遠征も撃退し、唐と争いながら百済と結んで新羅を攻めた。新羅と同盟関係にあった唐は高句麗討伐の為に再度兵を起こし、660年に高句麗と友好関係にあった百済を滅ぼした。さらに663年白村江の戦いで百済残存勢力が事実上壊滅したため、高句麗は孤立した。 高句麗の淵蓋蘇文の死後に子らの不動産 で内紛を生じると、それに乗じて唐・新羅は連合して高句麗の都の平壌を攻め、668年に宝蔵王らは投降して、ここに高句麗は滅んだ。 滅亡後 高句麗の包茎 は宝蔵王の庶子(あるいは淵蓋蘇文の甥ともいう)の安勝を担いで新羅に入り、新羅から高句麗王(後に報徳王)として冊封され、新羅内で684年まで命脈を保った。 また北部の高句麗遺民は唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられるが、その中の粟末靺鞨系高句麗人の指導者(乞乞仲象)により唐の支配を逃れ、その息子の大祚栄が東牟山(現在の吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)で独立し震国(大震)を建てた。後の渤海である。渤海は8世紀から9世紀にかけて繁栄を遂げた後、926年に新興の契丹国(遼)によって滅ぼされた。末裔は数度にわたって再興を目指したが全て失敗し、失敗のたびに指導者や領民のほとんどが高句麗の後継を掲げる高麗に亡命した。旧領に残った者は、後に勃興した女真の金において大いに重用され、その中で女真に取り込まれていき、歴史から姿を消した。朝鮮半島では10世紀初め、新羅の王族の弓裔が高句麗の後継を目指して後高句麗を名乗って挙兵し、新羅北部の大半を占領して独立した。その後、王建が後高句麗(当時は泰封と号していた)を乗っ取り、同じく高句麗の再興を意識した高麗が生まれる。後高句麗及び高麗は、同時期に滅亡した渤海の難民を同胞として積極的に迎え入れた。 また、高句麗の遺民の一部には日本へ逃れた者もいる。例えば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市・飯能市)は高句麗の遺民たちが住んだところと言われており、高麗神社・高麗川などの名にその名残を留めている。 日野開三郎は、弓裔の立てた後高句麗国とは別に、唐が現在の遼東半島一帯に旧高句麗王族を擁立して成立させた傀儡政権としての後高句麗国が存在しており、契丹の遼東占領時に滅亡したとする説を唱えている。 民族系統 高句麗は、夫餘から出た別種である。(『旧唐書』高麗伝 :「高麗者、出自扶餘之別種也。」) 高句麗は本来夫餘の別種である。(『新唐書』高麗伝 :「高麗、本夫餘別種也。」) という記述にもあるように、高句麗族はその起源伝説の類似点から、ツングース系と考えられる扶余と同じ民族と見られることが多い[2]。史上でも扶余の流民を受け容れていることが記されているが、民族を同一とするにたる明証はなく、墓制の違いを見る限りは扶余と高句麗との差は歴然としている[3]。但し、『魏書』百済伝の百済王蓋鹵王の上表文には、「臣と高句麗は源は夫余より出る」(臣與高句麗源出夫餘)とあり、当時の百済人は高句麗人を同種の夫余とみていたことになる。なお、扶余族は他に、沃沮(東沃沮・北沃沮)・?・百済(王族)などが朝鮮半島に広く分布し、高麗王朝以降、「朝鮮民族」のアイデンティティーが確立されてゆく中で、[要出典]半島南部の韓族とともに民族を構成していった一部とみられている。 文化 高句麗の文化は石の文化だといわれる。石で築かれた墓(積石塚)と石で築かれた山城が代表的である。高句麗山城は近年、中国や北朝鮮で大量に発見されており、韓国でも高句麗の勢力が及んでいた地域で高句麗式山城がいくつか発見されている。積石塚は高句麗前期の墓制で、後期には土塚即ち横穴式石室をもつ封土墳に移行した。高句麗墓の特徴として華麗な古墳壁画が挙げられる。起源は中国の古墳壁画に求められうるが、すでに前期古墳にもみられるものであり、高句麗独自の風俗や文化を後世に伝えるものとして重要視されている。前期古墳については中国吉林省集安市付近のものが「高句麗前期の都城と古墳」として、後期古墳については朝鮮民主主義人民共和国平壌市・南浦特級市付近のものが「高句麗の古墳遺跡」として、それぞれ世界文化遺産に登録されている。 朝鮮半島国家では最も早く仏教を受容し、『三国史記』高句麗本紀では小獣林王の5年(375年)に肖門寺・伊弗蘭寺を創建して順道・阿道らの僧を配したことが朝鮮での仏教の始まりとされている。既に東晋の僧・支遁(366年没)が高句麗僧に書を送ったことが伝えられており、小獣林王の仏教受容については国家的な取り組みであったことと見られる。広開土王の時代(5世紀初頭)には平壌に9ヶ寺の建立が進められた。高句麗の仏教は老荘思想を媒介として、神仙信仰と習合していたと見られている。神仙信仰はその後、6世紀頃からは道教として支配者層に広まっていったことが、古墳壁画に仙人・天女の描かれることからも伺える。栄留王の7年(624年)には唐に願い出て、『道徳経』などを下賜されるとともに道士を派遣してもらい、高句麗の国内で道教の講義を開きもしている。また、仏教寺院を道観に転じることもあった。 国際関係 北方民族との関係 高句麗は鴨緑江中流域の中国郡県内に建国し、漢人地域に対する略奪や侵略で強大化したため、当初から漢文化の影響が強く、匈奴や柔然との関係はそれほど強くはなかった。しかし4世紀になって中国が五胡十六国時代の混乱に陥り、遼西に興起した鮮卑慕容部が前燕を立てると高句麗はその攻撃を受けて丸都城を落とされ、臣従するようになった。だが華北に進出した前燕は前秦によって滅ぼされ、華北の混乱は高句麗に有利に作用した。この頃、高句麗はシラムレン河流域の契丹や北部満州の黒水靺鞨にも勢力を延ばしている。また北燕の天王には高句麗人が擁立されたこともあった[4]。 6世紀に入ってモンゴル高原に突厥が興起すると、契丹や靺鞨など弱小民族の支配権をめぐって突厥と対立関係が生じた。『三国史記』には突厥が高句麗の新城を攻撃した記事が見え、突厥の「ビルゲ可汗碑」にも初代突厥可汗が東方のボクリ可汗を攻撃した記事がみえる。しかし隋が中国を統一すると巧妙な外交で突厥を分裂させ、一部の契丹や靺鞨が隋に帰付するようになると、高句麗と隋の関係が緊張し、高句麗嬰陽王が隋の営州を攻撃して戦争に発展した。 やがて突厥が復興の兆しを見せると、高句麗は対隋戦略の必要から突厥に接近した。この時期には突厥を通じて西域諸国とも通好したようである。だが高句麗と突厥の通好は隋の疑心を招き、煬帝の大遠征に発展した。隋は高句麗を征服することができず、かえって国内の反乱によって滅ぶ。突厥はこの機会に乗じて再び勢いを盛り返した。その後高句麗が唐に滅ぼされると、突厥に亡命した高句麗人もいた。